http://www.yscc1986.net/news/2019/12/25
吉野裕太郎(23)FCCOJB Jr.ユース3期生
YSCCアカデミー→FCCOJBスクール→FCCOJBU15→COJBブラジルサッカー留学部門(ジュベントス→ウニオンサンジョアン→バルセロナ→ECSスザーノ→ペナポレンセ→リニャレンセ→タウバテ→ADグゥアルーリョス)→フットワーククラブ→エスペランサ→YSCCセカンド→YSCCトップ
亀のようにゆっくり、ゆっくり、コツコツと努力を続け、少しずつ成果を挙げていく男、それが吉野裕太郎。
Jリーグの前に、まず、中学を出て同期の戦友、森大地と2人で、本格的にプロを目指し、ブラジルへ旅立ち、労働ビザに切り替えるために帰国を強いられるまでの4年間、一度も帰国をせずにブラジルで己の居場所を探した。
FIFAのルールで、18歳になるまでは外国籍の選手は連盟の登録が許されないことになってしまい、公式戦参加の方法としては、別のアソシエーション団体しかなかった。同期の森はアソシエーション協会に登録し、公式戦参加した。一方、吉野は同協会登録を選択せずに、登録出来なくてもプロ下部組織のクラブでレベルを磨くことにした。現地スタッフは、公式戦に出るべきとアソシエーション協会の登録を勧めていたが、本人はその道を頑なに選択しなかった。
吉野も森も、真面目に現地の高校に通っていたため、吉野がサンパウロ市内から、地方のプロ下部クラブに移る度に、スタッフは転校の手続きをしなくてはならず、大変だったと思うが、あくまでもサッカー中心で生活しているため、それは仕方のないことだった。
大概、日本の高校を卒業しないでブラジルに渡る若者は、学生ビザを取得して現地に渡るのだが、昼間練習して夜の部で学校に通うが、授業聞いてもちんぷんかんぷんだから、行きたがらない。また、一般の学生も、雨が降ったり、気分が乗らないと、平気で欠席し、行かない。しかし、吉野はどの土地に移動しても、欠かさず学校に通った。
その根底には親との約束があったという。授業が解らなくても、学校は絶対に通い続けること。それを吉野や森も守り続けた。
地球の裏側だ。めんどくさければ欠席しても、日本にいる親にはバレないはず。しかし、吉野はその約束を忠実に守り続けた。
現地スタッフはいつもコメントしていた。「ブラジルの学校、特に公立はいい加減で、あんな授業を受けていても勉強にならないから、日本から来る若い子達も可哀想だけど、あまり欠席すると、学長がビザの更新許可をしてくれなくなるの、でも、裕太郎と大地はよくしっかりと通ってる」と報告があった。
しっかり通っていたこともあり、授業も理解し、ポルトガル語も上達した。高校の卒業証書を貰い、大学試験も受けて合格した。
1996年から多くの若者がCOJBを通じてブラジルに渡ったが、4年間一度も帰国しないメンバーは見たことがなかった。ブラジルという国にどっぷりと浸かり、腰を据えて、目標に向かいひたすら努力し続けたことは称賛に値する。正直、3年を過ぎた時点で、あまり多くの評価がなかったため、帰国しなくてはならない状況にいたことも確かだが、COJBブラジル技術スタッフで、元コリンチャンスの選手であったモイゼースが、吉野を評価し、価値を上げた。すると吉野はU20の公式戦で、不動のスタメンを勝ち取る。その経験が、プロの公式戦へと繋げた。その道のりはかなり長かったが、亀のごとく、ゆっくり、ゆっくり、コツコツと努力を重ねる吉野の姿勢は、後輩たち全ての見本となると思う。
優れた技術の才能がなくとも、努力する、決して諦めない姿勢も才能だと思う。
これを吉野は昔から持っていると思う。小学生時代から1人で中区から都筑区の練習場に通って来た。まず、欠席した記憶すらない。
中学生になってもそのスタイルは変わらず、練習、試合、欠かさずに参加していた。
足は遅い。突出したものは特にないメンバーの1人であったが、ぶれないハート、人生で生き抜いていく、体幹はしっかりしている。
吉野が今後、サッカー選手として、どこまで這い上がれるか?は本人次第だが、少なくても小、中、高校生年代を経て今日までの姿勢を見ている限りでは、長い人生を逞しく生き抜いていける免疫。心のベースは完成されていると思う。
サッカー選手を輩出するのは、嬉しいことではあるけれど、やはり長い人生を前向きに生き抜いていける逞しさを養うことの方が、多くの価値があると思います。
サッカー選手は一時。しかし、その後も、人生は続く。その後の人生を前向きに生き抜くエネルギーを自分だけでなく、人のためにも使えるようになれば、素晴らしいと思う。
吉野をはじめ、COJBを巣だって行ったメンバーには、そうあって頂きたい。
皆様、吉野裕太郎の今後の生き様を見てあげて下さい。そして、応援も宜しくお願い致します。