指導者や親。
双方、基本的には、事が勃発しない限り気づきません。
また、事が勃発しても、自分を振り返る習慣が身に付いてない大人でない場合は、大概、人の責任にします。
また、学校の先生の責任にします。
環境の責任にします。
自分のやり方は間違いないなかったと、思い込みます。
子供がそうなったのは、我々親ではない!
人の(先生、指導者、仲間)責任だと。
どんな親でも、自分の子供は可愛い。
当たり前です。
自分の子供を第三者、客観的に見れる親を見つけるのは、難しい。
多分それは、親には出来ないことだと思います。
自立心を持たせることの大切さを知ってる親は沢山います。
しかし、自立心を持たせることがどういうことなのか?を知ってる親は、次の段階になります。
親は本当に肝心な場面では、干渉しなくてはならないこともあります。出なくてはならないこともあります。
しかし、それが、本当に肝心なことだったのか?を親本人が気づくのは、本当に大変なことで、まず、ずっと気付かないかも知れません。親、自らの人生経験によることもあるかも知れません。
肝心でないタイミングで、親が子供のことで口を挟み過ぎると、親が先回りをして、解決しようとしてしまうと、子供が自ら、考え、悩み、解決していくことで、大人への一歩を歩めるところの成長の芽を、親自ら、その芽を摘んでしまうことになります。
「家は子供に厳しくやっている」と、断言する人がいるとします。
しかし、その厳しさが、何のための厳しさなのか?です。
子供の成長のため。
誰でも、そう思ってそうしていると思います。しかし、本当に子供の成長のためなのかどうなのかは、今、直ぐには判りません。水晶玉かなんかで、先を視る特殊な力があれば別ですが。
厳しくしたことが、子供達の未来に於いて、生きる力、人間力などに繋がれば良いですが、現時点、特に、小中学生では、まだ、答えが出ません。
では、その答えはいつ出て、いつ我々に伝わってくるのでしょうか?
一生解らない時もありますが、解る時もあります。
その解らせてくれるのは、かつては子供であった生徒達です。
「あの時にコーチの厳しい指導があったから今でも、それを糧に社会(高校)で頑張れています」と聞いた時、そのメンバーに対しては、良かったのだな?と振り返り、感謝し、間違いでなかったことが確認でき、この上ない喜びに変わります。
しかし、時にそうでないこともあります。
人間同士、誰でも、どんな時でも、解り合えるか?と言えば、それは難しいし、不可能なことかも知れませんね。
しかし、例え、合わなくても、大切なのは、向き合ったか?だと思うのです。
向き合っても、合わない時は合わない。
それが人間の難しさだと思います。
大人が、権限や力で、若者を押さえ付けても、それは表面的で、本当に、解り合えたことにはならないと思います。
我々が良かれと思って、その人にアプローチ、指導したことが、却って、裏目になることもあります。
完璧な人間などいません。
親、指導者でも、先生でも、会社の社長でも、時に間違いはしてしまいます。
間違えなら、相手が子供であっても謝罪しなくてはなりません。
その時に、変に、大人の威厳、プライドを出すならば、果たして、指導者など、人の上にたって、育てる資格があるか否かは疑問になります。
子供達よりは、長い期間、人生経験をしてますし、いくら完璧でなくても、後身に伝えなくてはならない立場にいることも確かです。
その時に、自分を振り返り、間違えを認め、改める姿勢を持っていれば、教育する資格は誰でもあるのではないでしょうか?
話を戻しますが、時に、子供は、自分の都合の悪いことは棚に置いて、親に説明し、その場から逃げようとする時があります。
その逃げようとしていることが、本当に逃げなのか?そうでないのか?は親として、事実を確認して、判断することも、子供の将来を考えれば、大切なのでは?と思います。
一度逃げれば、また、場所を変えても、また、同じ局面がやって来ます。世の中は、面白いもので、形は違えど、試される時がまた、いつしかやってきます。
その判断を、子供自身が出来るか?と言えば、それは難しい。
しかし、親、指導者であれば、ある程度の未来は予想出来ます。少なくとも、子供よりは、長い人生を生きてますから。
小学生も、高学年にもなれば、自我もより強くなり、自分の意見も言えるようになります。ましてや、中学生ともなれば尚更です。
全ては、大人として形成されて行くための、ベース作りだと思うのです。
ですから、中学生の育成教育は、親だけでなく、指導者、先生と言える、子供達を取り巻く周囲の大人の存在は、かなり重要になると思います。
学校であれば、教材の中身を詰め込むだけでは、教育として物足りないでしょうし、サッカー指導者なら、サッカーの技術だけを教えるだけでは、あまりにも、物足りないと思っています。
それだけでは、中身の成長には繋がらないからです。
やはり、一番は子供ファーストであり、親は一番、我が子の成長を誰よりも願っていると思います。
ただ、子供に手を差し伸べるタイミングを間違えてしまうと、折角の成長の芽を、摘んでしまうことがある。
それを、少なくとも中学生を13年間、
15歳以上を10年間、計23年間、関わらせて頂いた結論だと言えます。
中学生の中身に、意識的に入り込んでいく。内心に、飛び込んでいくことにしています。
飛び込んで行けば、日頃、大人しく、我々の前では、あまり喋らない子供でも、何かしらのアクションを起こして来ます。
認めたり、反発して来たり。
そこからが、実は本来の育成になるのですね。
波が立たなければ、その場は凌げます。
楽しい時間だけを過ごせば良いのです。
しかし、大人の世界、社会はそうは行きません。
小学生までは、それで良いのかも知れませんが、中学生からは、それで良いとは思わないと、思って指導しています。
20年前までは、とにかく、ブラジルとのコラボで、プロサッカー選手を輩出することだけを考えていましたが、それに到達する人は一握りもない場合もあります。
大半は、違う道に行きます。
社会人になる訳です。その時に、役に立つことは、中身になります。サッカーを通じて、何を養ったのか?です。
試合で、中々上手く行かず、冷静さを失い、戦うことを止め、足を止め、チームメイトに迷惑を掛けてしまうメンバーがいたとしましょう。チームの中心選手だからと、指導者が何も指導せずに流し、それが、当たり前だとし、その選手が大人になったとしましょう。
会社がいつも、右肩上がりであれば何もないでしょうが、業績が上がらない時もあります。その時に、若い頃に形成されてしまったハートの人は、その会社、部署のために、誰よりも、汗を掻ける大人に、果たしてなっていると思いますか?
私は、それはないと思います。
業績が下がっているのは、俺の責任ではない、俺はやっている、あいつの責任だ!
だから、敢えて失敗がまだ、許される、年代の若者の中身に突っ込んでいくのです。
敢えて嫌われ者にならなくてはなりません。
当人は、嫌でしょう。
しかし、その意図を知るのは、親との連携になるのではないでしょうか?
大半の親御さんはその事実を知った時には、「そこまで、考えてくれているのは有難い」とコメントをくれますが、意図が確認出来ないと、手を差し伸べる。
「辞めて良い」と。
私達の育成教育が裏目に出てしまう瞬間が辛くなる時があります。
力を注げば注ぐほど、スレ違うことも度々です。理解して貰うのに時間も要します。
中学生にもなれば、反抗期で、身体も大きくなり、お母さんの腕力では敵わなくなりますね。小学生時期は言葉が悪いですが、支配出来ていたものが、中学生以上にもなれば、それが通用しなくなります。
その時こそが、大切で、全ては、今だけのことではなく、若者の将来への形成です。
少なくともCOJBの育成は、そこに行き着いてしまいました。
ですから、時に、同じメンバーでスタートし、最後の卒団式まで、そのメンバーが残り、送り出してあげられるか?と言えば、Noです。意図を理解して貰えないまま、決裂してしまうこともあります。
なぜ、私達がメンバーの中身に飛び込んだのか?の意図が、メンバーや、親御さんに伝わってない可能性が高い場合に限り、退団に到っているのです。
この伝える努力は、今後、反省材料にしていますが、
やはり、サッカー選手を育てるのは、メンバーが望むのであれば、そこに橋渡し出来る準備はありますが、もっとも、重要なことは、心の成長で、大人、社会に出ても、役に立つハートでしょう。
この信念は、引き続き、拘りたいと思います。ただ、伝わらなくては意味がないし、途中で、崩れてしまいます。
中学生年代の難しさを、保護者との連携で、1人の若者のハートを養うことができれば、私達が、中学生年代を設立した意味が大いにあると思っています。
長い文章のご拝読、ありがとうございました!!