肝心な時にバイタリティーのある人に成長して貰いたい。中学生年代の指導をさせて貰っていて、常々、そう思う。
スポーツは人を形成するという言葉をよく耳にするけれど、それは確かだと思う。サッカーも例外ではない。
勝負していて、必ず厳しく苦しい時間帯はある。自分だけでなく、仲間も苦しいはずだ。控えを見てもギリギリの人数。リードされている状況、1、2点を最後まで守り切らなくてはならない、つまり追われている立場の場合など、さまざまシチュエーションに遭遇する。
1人が沈めば、負の連鎖となり、チームは活気がなくなりそれをいち早く察した相手がその弱みに入り込んで来て、一気にゴールに襲い掛かる。
逆に、誰かの力強い前向きな一声やプレーで仲間が元気づけられ、相手を上回ることができる。
これは、人生に例えるとサッカーやスポーツの世界だけではないと思う。
人間、調子が良い時は、誰でも余裕が生まれるし、周囲に声を掛けてあげることが出来る。しかし、悪い時は、中々出来ないのが人間でもある。
そんな時に、誰よりも一歩先に動ける人でありたい。流れが悪い時こそ、一歩先に動ける人。
中学生が、やがて社会に出た時、人に促されてしか動けないのか、それとも、自分が先に動ける人にあるのか、これは、中学生年代のサッカーという狭い世界だけを取ってみても、十分窺えるものだ。
単に、サッカーの上達があったとしても、プロ選手にならない限り、その技量そのものは、一般社会では発揮する場所はない。
しかし、サッカーを学びながら培った精神力や中身(=ハート)は、一生使える。
苦しい時って、自ら声を出す事って結構難しい。「人任せ」という言葉は、世の中、至る所で飛び交っているフレーズの1つだと思う。どの職場でも、絶対にこの言葉は、使われていると思う。人が動いてようやく動く。だれでもある。しかし、最初は人の動きを見て動いてしまったが、次回は、自らが動く。そこに意識がある人は、この先、その習慣が身に付く可能性がある。
たまたま状況が良かったから動いた。では、本当に養われたとは言えない。
また、「あいつは使える」「あいつは使えない」こんな言葉も日常茶飯事に飛び交っていると思う。
育成期に何も意識をせずに、日々を過ごしてしまうと、元々、備わっている人ならば違うけれど、人任せの習慣は、ごく普通になっているから、どこかのタイミングで指摘される機会が訪れないと、ずっとそのままになってしまう。
中学生にも、そのようなシチュエーション、日頃の行動が沢山転がっている年代でもある。それを、1つ1つ見逃さないで指導するのは、中々容易ではないけれど、敢えてそれをしていかないと、勿体ない年代でもある。
サッカーで優勝することは一つのチームの目標だからそれはそれで大切。しかし、これらは、将来的には、思い出として残るだけになる。優勝した恩恵に、プロ選手として生活できる人は、本当にごく僅かだ。
しかし、内面の成長は、どの社会にも役に立って行く。
実は自分も厳しいし、苦しいけれど、人を思いやれる人。これは、中々できることではない。
フィジカルトレーニング1つ取っても、単に、体力がつくために走らせるケース。あくまでも試合で走れる基礎体力を養う。しかし、これだけでは勿体ないと思う。まず、厳しいシチュエーションに持って行くと、個性が露になるし、追い込まれれば、本性が出る。自分だけで精一杯であっても、やがて、自分自身が超えて、強くなると、苦しんでる仲間にも声を掛けてあげることが出来るようになる。元気がなく、意気消沈しているところで、「行くぞー」って声を掛けられるようになる。
これらの小さなことを育成年代で積み重ねることによって、社会でも、世の中に出た時に、何か人のために役に立ちたいという気持ちも芽生えてくるきっかけになるかも知れない。